映画に恋して放浪の旅、半世紀   ちまたの風は冷たくも・・・

あの頃は、映画館もたくさんありました。

東映、東宝、日活、大映はもちろん、洋画専門館。そして、成人映画専門館。
昭和30年代のころ、私が小学校2年生のころかと記憶しています。父と、行った映画は「にあんちゃん」。映画館は、立ち見客までいてギッシリ満員。父に肩車をしてもらって観ました。

子役で出ていた小学生が、私と同じ年ごろからか、スト-リ-は覚えていませんが白黒映画にもかかわらず、その子役の小学生は光っていた。その思い出が印象深くずーっと残っていて。

それから月日は経って、社会人1年の22歳の時です。「にあんちゃん」のシナリオを書かれた池田一朗先生にめぐり会ったのは。

一本の映画と、一人のシナリオライター。私の人生に七色の夢を描かせてくれた映画とシナリオライターとの出会いは、シナリオの無い人生。だから、面白いんです。そんな歩んできた道のりを、語ります。

・小中学生の頃

小学生のころは、あまり映画館で映画を観た記憶はなくて覚えているものは「真田十勇士」と、先の「にあんちゃん」くらいです。真田十勇士のなかでは、猿飛佐助や霧隠才蔵の忍術によって白煙の中からガマガエルの化け物や大蛇が出てきて戦うシ-ンにゾクゾクしていたものです。

もうその頃はテレビの出現によって、映画館にいくお金の余裕のない家は、やはりテレビで映画の再放送を観ていました。石原裕次郎、浅丘ルリ子が共演する日活映画はほとんどテレビで観ました。土曜日の夜10時からの放送は、眠たいのを忘れさせてくれました。夏なんかは、親からお小遣いをもらって、近所の駄菓子屋さんまでひとっ走り。家族4人の喉をうるおす、アイスキャンディーは最高でした。

私の通っていた田舎の学校は、幼稚園から中学校まで同学区のクラスメイトばかり。学校の講堂で開かれた、映画上映会の「モスラ」などは小中学生みんなで一緒に見ていました、といえば嘘になりますね。講堂に入りきらず、小学生の観た後に中学生が、という順番だったかと。

団塊の世代から2~3年後が私たちの世代になりますが、それにしても今と比べると大変な人口格差に少々寂しい感はぬぐえません。

こうして、昔を懐かしみながら映画のことに触れていましたら、ひとつ何気ない記憶の片隅に埋もれていた母と行った映画館での想い出が蘇って・・・。

それは、小学生5、6年の頃です。母は、急に思い立ったように、私を映画に連れていってくれたのです。その洋画専門館では、子供の好きなジャングルに生息する動物たちのドキュメンタリー映画でした。映像の世界に飲み込まれて楽しい時間を過ごし「THE END」となります。

私は、愉快な顔をして母の方を向きなおった時、じっとスクリーンを見つめている母の目に涙が滲んでいるのが不思議でした。なにか切羽詰まった感じの表情は、幼い私にもそれとなく伝わってきました。次回の予告編が流れ、スクリーンにはアラン・ドロンのラブシ-ンが流れている。子供の目には、嫌な感じと好奇心が入り交じって胸が苦しかった。そっと、母を盗み見します。じっと、前を見つめている。映画は観ていなかった。表情の無い、白い仮面のように映りました。怖くなって母の顔から目を逸らしました。私は、とても寂しい気持ちになって

これだけの話ですが、母の悩みが、今となってはよくわかるように思いますよ。

1964年。小学校6年生の10月、『東京オリンピック』が開催され、学校の図書館に設置されたテレビで観た記憶があります。翌年の1965年には映画公開もされました。学校の講堂で、映画『東京オリンピック』を見たのは中学校1年生だったかと。私もスポ-ツは好きでしたが、もっぱら長嶋茂雄・王貞治のいる巨人軍に夢中でした。東京オリンピックには、野球種目がなかったため、あまり興味はなかったですね。                       

それでも、マラソンのアベベや女子バレ-ボ-ルなどは不思議に鮮明な記憶があります。きっと、意外な活躍をしたその選手たちの表情が新鮮そのものに映ったのではないかと思います。映画、テレビ、写真の一コマ、ワンショット・ワンシーン、ワンカットに浮かび上がった一瞬の奇跡は、生涯忘れられない宝物だと思います。 

その感動を生む『宝物』探しは、高校生時代に始まります、

・高校生の頃

ニキビが気になって、異性のことを意識し始める高校生の頃。毎週土曜日の下校途中は、映画館浸りが習慣になっていました。

一人でいくことは、ほとんどなかったですね。いつも同級生の友達と行っていました。同級生といっても、歳はひとつ上。同じ中学校のひとつ先輩にあたります。中学2年生の時に、病気を治すため一年間休学をして私と同級生になったわけです。               

彼は、中学生の頃から短距離の期待のエ-スでした。筋肉隆々、顔つきはコワモテ、恐い感じの男。それが、私と一緒に映画館へいくのは、義兄弟のようでもあり私のボディガ-ド役でもあります。                                     

その頃は、ヤクザ映画全盛で、高倉健・池部良・鶴田浩二・若山富三郎などなど、映画館を出てくるお客さんは、映画の中の俳優になっているようにして肩で風切る、そんな様子でした。詰襟学生服の格好だと、あんちゃんにナメラレル風潮がなきにしもあらず。だからこそ、彼が盾になってくれていた。成人映画館へは、学生服は、スポ-ツバックに入れて観賞です。もちろん、その彼と。笑

洋画もよく観ました。「太陽がいっぱい」のアラン・ドロンは、往年の映画スタ-、ジャン・ギャバンとも共演したりして、ジャンポ-ル・ベルモンドと双璧をなすフランス映画界の大スタ-になっていました。また、マカロニウエスタンの、クリント・イ-ストウッドは「ダ-ティ-ハリ-」への伏線としての渋い俳優ぶりにワクワクしっぱなしで。渋さに貫禄が加わった、「007」シリ-ズ、ジェイムスボンド役のショ-ン・コネリ-。「大脱走」の、スティーブ・マックイ-ン、アルフレッド・ヒッチコック監督「鳥」の、ジャクリ-ン・ビセットなどなど。青い春には、たまらない私のお気に入り俳優さんたちです。

初デ-トの思い出の映画は「ロミオとジュリエット」です。オリビア・ハッシ-は、私のマドンナでした。デ-トしたのは2~3回ほどです。なかなか、その先にまで進むことはありませんでした。大学受験の壁を言い訳にしてはいけませんね。今、思えば青い春でした。

・大学生の頃

補欠合格のおかげで、東京の大学生となった私は、1回生・2回生を学生寮で過ごしました。
大学のキャンパス内に学生寮がありましたので、学生寮生活はとても快適な時期だったといえるでしょう。

映画に関係するサ-クルに入りたかったのですが、「映画研究会」略して、映研は封鎖されていました。全盛期からは年月を経た、学生運動ではありましたが、各セクト間同士での勢力争い、内ゲバといった複雑な抗争拠点に「映研」はされていたそうです。肩すかしのようになった私ですが、学生寮生活の面白さにだんだんとはまっていきました。

日本全国から集まって来ていた寮生仲間との、無茶苦茶な青春謳歌。それは、受験勉強から解放されたことからくる妖しい好奇心の爆発と言ってもいいでしょうか。

麻雀、パチンコにノボセル奴。女にはしる奴。酒に溺れる奴。学生運動にはまるやつ。勉学に惚けるやつ。十人十色でした。

私は、それらの全てをかじっていました。と、言うとアレですが、全て中途半端で奥の浅い薄っぺらノンポリ寮生でした。それでも、映画は忘れなかった。

そして、ギタ-という友ができたのは、大学生時代の宝物になりました。

「エルビス オン ステ-ジ」を銀座の映画館で観た時、「サウンド オブ ミュ-ジック」を新宿歌舞伎町の映画館で観た時。プレスリーにジュリ-・アンドリュ-スに惚れたのです。ふたりに共通する素敵な音楽アイテムが、ギタ-でした。また、その頃は、フォ-クソングブ-ムもあって、ギタ-の存在は自分をアピ-ルするためには恰好の道具ともいえました。学園祭で私のギタ-に歌に、集まった学生たちの中に、素晴らしい女子学生と恋のようなものも少しは経験をしました。すこし、はしゃぎすぎですね。

学生寮を出て、アパ-ト暮らしを始めたのは、3回生からです。

学生さん専門のアパ-トに引っ越したその日、タバコの不始末で私は、ボヤを出してしまいました。
大家さんから、即出ていくように言われて困っていた私に助け舟を出してくれたMがいました。

Mは、専門学校生でしたが親からの仕送り無しで自活していました。主に、日雇いの力仕事のアルバイトをしながら、英会話スクールに通っていたのです。バイタリティーあふれる寂しがりやさん。ですが、私に無い生活力がありました。よく、簡単な手料理を持ってきてくれ、お返しに、ギタ-に歌をと、調子のいい私です。

そんな奴の友達に、俳優志望のYが遊びに来ていて、私に紹介してくれたのです。
Yは、新宿の焼き肉店で働いていました。お酒と女が大好きな遊び人。と、私には映りましたが全くその通りでした。しかし、俳優志望だけあって映画とフォ-クソングにも関心を持っている男でした。成行き、私とは映画に酒にギタ-に歌に、絡み合っていきます。Yがアパ-トに来ると、Yの仲間たちとも親しい専門学校生のMも加わって数人の宴会となります。私が、ギタ-をかき鳴らし歌い始めるとみんなが揃って茶わんや、本や、灰皿を楽器にしてわんやわんやの大騒ぎ。酒が入るともう手に負えません。まわりの住人は、さぞやうるさかったと、今にして反省しきりですが・・・。青春三文喜劇、やってました。。

アパ-ト暮らし2年目に入ると、そろそろ就活の頃をむかえます。
何ひとつこれといって自慢するものはない私は、それでも、映画に憧れていました。しかしながら、定職としての映画方面に採用枠はほとんど無し。目標を広げて、マスコミ関係全般に就活し始めることに。甘かったですねぇ。考えることは皆似たようなもので、狭き門に応募者の山。何十社、就活したのやらです。半年かかって、やっと一社採用された次第です。それも、映画とは縁遠い広告会社に。

まあ、食べていける口があったとホットしてはいました。
ノンポリ学生のノンポリ就活。映画の夢は捨てきれずに、サラリーマンの道にぽつぽつと。

・社会人(東京)の頃 その一

学生気分がまだ抜けきらないまま、銀座にある広告会社へ就職しました。

三度のご飯がいただけて、お酒もそれなりに飲める。
都会生活を独身貴族として送れることができれば、それで満足。
社会人として褒められたこととは言えませんが、なにか得体の知れぬ無気力感が、自分の中に巣食っていたように思います。

広告の仕事には、いろいろあります。
私が担当させられた部署は、各新聞へ掲載する求人広告の営業でした。
当時、仕事を探す所は公共職業安定所もしくは新聞の求人案内広告欄が一般的でした。

人を採用したい会社の要望に応えるための、お手伝い。これが営業の仕事です。
人事採用担当者と、コミュニケーションをスム-スに図れるようになって、
欲しい人材を採用することが出来るところまで、お手伝いする。
その結果、売り上げにつながるという仕組みです。

週に一度、営業会議が開かれていました。私は、毎回のようにお目玉いただき組。
売り上げ目標の半分にも達していませんから、当たり前のことですよね。
やる気が出ない。サボる。営業日報を作文する。売り上げ目標をクリアするわけがない。

それでも4年間在職できたのは、不思議なこと。ですが、少々ワケがありました。
それは、仲間作りにありました。

サボり仲間をつくり、お目玉の圧力を分散させる、ということになります。
まるで子供みたいなことをやっていたものです。

いっしょにお茶する。映画する。この二つのサボり。

営業マンは、男女あわせて20名はいました。求人広告営業の仕事がら、女性の戦力は大です。
入社したての新人営業マンだった私は、女性先輩営業マンによくお茶に誘われたものです。
もちろん、断る理由はありません。午前10時から11時のモ-ニングサ-ビスタイムがそれです。
新人と言っても、勘定は割り勘。でも、いろいろな社内外の情報がタダで聞ける。

女性営業マンは地獄耳。なんでも知っている。私は、耳年増になりそうでした。
社内の出世派閥レ-スなどには全く無関心な私ですが、いい勉強させてもらいました。

仕事帰りに、同僚と一杯。それは、女性営業マンに限ってはなかったと思います。
ライバル意識もありますが、仕事は仕事。プライベートを大切にするのは女性営業マンも同じです。

それでも、一生に一度の忘れられない体験を私は、させていただきました。すみません。^^
話をサボり仲間にもどします。

入社して一年。新人扱いは終わりです。大卒新入社員が入って来ました。
一週間で辞めてしまいました。急遽、営業マン2名を中途採用したのです。

二人とも大卒の、1人は二枚目の夜の仕事上がり、私と同級生のT。
もう1人は、家業を手伝っていた就職浪人、私より1つ年下のK。

二人は、私と似た匂いがしました。当然のことサボり仲間に。
サボりの中身は、先に述べたようなものですから割愛させていただきますが、
別のペ-ジで詳しく紹介させていただきます。勝手して、すいません。

このペ-ジの、「まえがき」で少し触れました、映画「にあんちゃん」。
そのシナリオを書いた『池田一朗』先生との出会いに話を移します。
広告会社に入社して半年足らずの夏の盛りのころです。

仕事にもやっと慣れて、求人広告原稿が一通り書ける時期をむかえていました。
媒体部からは、お前の原稿は読みやすいな、冗談抜きに”字が上手い”。
このような褒め言葉で、営業マンは燃えるんです。

私の通知簿に『五』はたったのひとつだけ。高校一年生のときの書道。

もともと、字を書くのが好き、映画も好きでした。シナリオという文字が目にとまります。

新聞の裏面のラジオ・テレビ面に、【シナリオ研修生募集】と、広告がありました。    読んでみているうちに、だんだんその気になって友達に借金をして5万円の受講料を支払ったのです。

ひとつ、夢が生まれました。

・社会人(東京)の頃 その二

地下鉄日比谷線「六本木」駅すぐにある『日本放送作家協会』。
その協会の中で、シナリオ研修生の私は、講座を受けていました。

現役で活躍している、映画・テレビ・ラジオのシナリオライター(脚本家)から
バラエティー番組の構成作家まで、ジャンルはかなりの数です。
全ての、ジャンルにわたって一応の講義を受けていた時に、
時代劇で有名な「池田一朗」先生の講座をはじめて受講したのです。

日本放送作家協会から配布されたパンフレットに、作家の紹介記事があって、
その中に、池田一朗・・・映画「にあんちゃん」シナリオ執筆。とありました。
「へえ」って、懐かしい記憶が蘇ってきました。                    顔写真はなく、それだけに池田一朗講座を楽しみにワクワクして初対面を迎えたのです。

その当時、テレビで時代劇の大物脚本家として有名な方という話でしたが
いかんせん、私はテレビを持っていなかった・・・。

8割くらい埋まっている教室には50名ほどの受講生。街の喧騒が漏れ聞こえている。
静かに入ってきた先生は、見事な白髪の巨漢。そう、見えました。

「池田です」。太く大きなしゃがれ声。

挨拶はそれだけで、おもむろに缶ピ-スを取り出して一本に100円ライタ-で火を点ける。
美味そうに煙草をちょっとだけ吸って授業に入る。2~3服吸ったら灰皿に放る。
約1時間の授業中に、灰皿は吸い殻でほぼ一杯になっていました。

あの頃は、煙草を吸いながら仕事をするのは普通のことでしたが、
授業中にスパスパやりながら、という風景はあまりなかったと思わず笑ってしまいました。

漂う世捨てびとの風情。すねたような、抵抗感。あどけない、悪戯っこ。
そして、途方もなく開放的な大きな渋い笑いっぷり、と、言ったら!!

いっぺんに好きになった。

池田先生の授業内容は、あまりよく覚えていませんが、
テレビドラマの脚本と映画のシナリオの違いは、観客の違いによる。

片手間に見る時間帯や、視聴者層などに影響されるテレビドラマと、暗い映画館の中で集中して観る映画は全然違う。

その違いを把握して書かないといけない・・・
タ-ゲットを把握する事が大切、と解釈している私ですが。

三か月間の先生方による一般講座を終えると、希望する先生のゼミ形式の授業に移ります。
私はもちろん、池田ゼミに入りました。

時代劇、現代劇にかかわらずなんでもいいからオリジナルの脚本にする。

あらすじから脚本に至るまで、一人一人がみんなの前で先生の前で声を出して読み上げる。
質問と注文が来て、もぞもぞ答え、書き直してまた発表する。その繰り返しです。

池田先生の、雑談まじりのコメントが入って、協会でのゼミはお開きとなります。

これからが、ゼミの本番。六本木の夜は長い。

お腹が空いているのでしょう、馴染みのお店には先生の好きなオムレツがまず出されていた。
映画以外の話しでも何でも、よく聞いてくれるしその受け答えがウイットに富んでいた。

酔いが回れば、カラオケで歌い踊り、楽しい愉快な宴。ダンディーでお洒落な池田一朗。
終電車のころ、そろそろ帰り支度の我々は六本木駅へと向かいます。
挨拶をしようと池田先生の姿を探しますと、我々とは反対の方へ歩いて行かれていた。

その先生の後から慕うように何かが憑いていく。妖精のような不思議なものが、、、

かなり酔っていて判然とはしませんが、怖い感じはないし反対にほのぼのとした光景でした。
2~3度そういったシ-ンがありましたが、池田先生の人徳のなせる、憑きモノたちのご愛嬌だったかと。

研修生の我々が目指すシナリオライターになるためには、何らかの形で入賞することです。
テレビ、映画、ラジオなどの新人賞で賞を取ることが出世につながります。
池田ゼミでも、各賞にむけてみんな切磋琢磨していました。

賞の締め切り日が近づくと、忙しいなか喫茶店で先生は原稿をチェックしてくれたのです。
ペラ原稿(200字)100~150枚を1枚ずつ手早く読みながら、朱を入れる。
完全無口なその集中ぶりは、向かい合わせの私は祈るようなすがるような幼児でした。

先生の文字は、小さくて可愛い丸文字。巨漢とミミズのアンバランス。

チェックが終った原稿を後で見ると、朱文字が笑っているようでした。

私は2本、シナリオ新人賞へ応募して2回とも2次選考までは通りましたが、
入賞までには至らなかった。

しかし、書店に並ぶ「シナリオ」雑誌に自分の名前を見つけた時は、本当に嬉しかった。

ある晩。六本木のBARで先生とふたりで飲んでいると、

「お前さん、酒は飲みすぎるんじゃないよ」みたいなことを言われた記憶があります。

あの頃は若いころの特権と自分勝手に甘えて、毎日浴びるように飲んでいる私がいた。
酒をつまみに、ウイスキー・ビ-ル・日本酒・焼酎のチャンポン乱れ酒でした。

オムレツとライスでお腹を整えてそれからお酒に入る、先生は正解です。

あの晩の、先生の独り言を素直に聞いておけばよかった。

66歳という若さでこの世を去られましたが、亡くなる直前までペンを運んでいたと聞きます。

池田先生のことは、いっぱい思い出に満ちています。
折に触れて、紹介させていただきたいと思います。

・社会人(帰郷)の頃

1985年の晩夏に、帰郷します。離婚のためのUタ-ンでした。

まわりを見渡せば良し悪しにかかわらず、結婚をひとつの弾みとして挙げた友人たちが多くいました。

新しい生活に命の誕生にそれぞれの夢と希望を、または失望を。それぞれですが、
ひとり孤独にすごすよりは、男と女の共同生活を選んだのは私です。

故郷でお見合いをして、なんのあてもない生活設計のもと、結婚したのは罪です。

横浜の市街地に新居を構えましたが、定職もなく、あるのは借金と性欲と飲酒癖だけ。
子供はすぐできますが、育てていく自信が全くない。そう、見切りをつけて妻は帰郷。

都会の生活に倦んでいた私も、あとを追うように故郷に向かったのです。

正式に離婚したのは、年明け早々。あっけなくさよならです。

離婚する前の三か月間、私は、肉体重労働の仕事で借金をすべて返済し
これから地元で腰を据えて働く仕事を見つけることが出来ました。

それは、地元に密着した「ミニコミ・フリ-ペ-パ-」発行会社『S企画』でした。
新聞折り込みという配布方法をとった、一市40万世帯をカバ-する約5万部の発行部数。

商店街情報をメインとした、ファッション、美容、カルチャー、グルメなどの広告が
見開き新聞の半分サイズに踊っているものでした。

東京時代に経験した、広告営業、印刷営業、そしてシナリオ。
これらのキャリアを活かして、『S企画』で約7年間、暴れまわりました。

一般の新聞とはちがって、広告収入だけが経営の母体。
私は、名刺と足で新規広告獲得に奔走し、半年足らずで売り上げの半分を上げていました。
とはいっても、営業マンは2~3人。編集長、つまりは社長一人。事務兼制作スタッフ一人の、
吹けば飛ぶよな、ミニコミ広告新聞社というわけですから、たいしたことではありません。

懐かしい話をひとつ、ふたつ。

美容院の特集を私が企画し、その企画書を持って特定の美容室を回ります。
院と室の間には相当な感性の開きがあります。

20~30才代の男性オ-ナ-が美容室なら、昔ながらの髪結いの亭主の奥さんがオ-ナ-の美容院。

手っ取り早く言えば、ヤングレディをタ-ゲットにした男性オ-ナ-の美容室の企画。

企画書は、背景ベ-スに英字新聞をモザイク状に切り張り、5つの空白スペ-スを設けます。

そのスペ-スに先端美容室を紹介する広告を入れるという設定です。

企画タイトルは、『ヘア アイテム ’86』。シンプルさがウリです。

入社してひと月あまり、緊張してしまいました。と、言うのは、
この町にはせいぜい6件くらいしか、この企画に当てはまる美容室がなかったのです。

まず声をかけた所は、2~3度足を運んでいて感触がよかった「室」とはとうてい呼べない美容「院」。。
企画書を見せると二つ返事で”いいよ。ひと枠頼むね” ”ありがとうございました”
初めての私の企画ではじめて取れた一瞬でした。残りは四枠です。

勢いに乗って、企画にふさわしい美容室をその日のうちにまわりました。
成績は、4勝1敗。残りはひと枠。最後の1件は、先輩の担当していた美容「室」で決まりました。

広告注文を受けて、次は取材です。重たいカメラ機材を担いで店内などの撮影。
オ-ナ-から、今プッシュしたいキャンペーン情報などをメモって、広告原稿のまとめ。

キャッチフレーズ・コピ-からレイアウトまでを考えて、制作へバトンタッチしますが、
忙しい時には、制作もわれわれ営業マンがする事はざらです。

手づくり広告原稿をコピ-して、オ-ナ-から確認OKが出ると紙面に組み込み、紙面編集。
そして、印刷会社で深夜まで校正の末、印刷。寝る時間もあまりありませんが、
刷り上がってきたミニコミ・フリ-ペ-パ-を持って、掲載紙としてスポンサーに届ける。

これで「ひと枠」\30,000は安いと思いませんか?笑

『ヘア アイテム ’86』が、紙面を飾った初めての企画をみて思いました。
やっぱり、最初の美容院は浮いている。ま、いっか。。。

私の得意ワザの求人広告企画は当たりました。

それまで、求人案内欄というコ-ナ-はありましたが、                 求人広告特集企画はありませんでした。

というのは、ライバル紙が独占していたのです。

しかし、そのライバル紙にも特集企画はなく、あくまでも1行いくらの案内広告でした。
イラストも写真もありません。
私は、美容室の企画をヒントにしてひと枠料金¥20,000 にして、
ライバル紙に掲載されている、会社・商店・飲食店などを片っ端から営業したのです。

特集企画のいいところは、何を特集しているかひと目でわかり、訴求力が強いところです。
ファッションバ-ゲンならファッションバ-ゲン。忘年会なら忘年会。求人なら求人です。

最初は苦労しましたが、続けているうちにライバル紙から、こちらに流れてきた。

また、求人広告の内容は、職種、給与、待遇、応募方法とだいたい決まっているから、
原稿作成も簡単で、同じ原稿の使いまわしが可能。電話一本で仕事になりました。

さまざまな業種を網羅したミニコミ・フリ-ペ-パ-ですが、
紙面に穴を空けることは出来ません。
それでも、広告が集まらない時もあります。そこで

編集長の腕の見せ所です。それは、「クイズ」です。

空いた紙面にクイズを出題します。そして、正解者にはプレゼントを抽選で差し上げるのです。
プレゼントは、広告主からの協賛によるものです。

美容院美容室のパ-マ利用無料チケットとか、飲食店の2000円食事券などなど。
チケット、食事券を当選者は持参してお店でサ-ビスを受けることができるわけですね。
足を運んでくれるメリットは、お店にとってもいい宣伝になり、一挙両得。ここが、味噌です。

ただし、そのクイズが面白くないと応募する気にはなりません。

クイズの内容を考える知恵とひらめきが、編集長にはありました。
内容は、企業秘密なので明らかにはできませんのでご了承ください。

一回のクイズに、はがきが200枚から1500枚。多いときには3000枚も届いていました。
テレビの視聴率に置き換えても、かなりなものと思います。

編集長は、偉い!

余談になりますが、仕事がら、カルチャー教室にも接点がありまして・・・
そこの先生と恋に落ちました。彼女はひとつ年上のバツイチ独身。私も。
あとはもう、ご想像におまかせします。^^

仕事は、きつかったが充実していました。

なによりも、地元の人たちに愛されている、役に立っている。自負心はありました。
できれば、この会社で骨を埋めても・・・
勝手に思い込んでいた。

もともと、家族経営の会社です
やはり自分の倅が可愛いのが親でしょう。

社長の息子が後を継ぎました。

漂う世捨てびとの風情。

池田先生の缶ピ-スの紫煙に浮かび上がるあの優しい笑顔が懐かしい。

・60歳の還暦を迎えて

シナリオのない人生を送ってきました。

ミニコミ・フリ-ペ-パ-を退職したあとは、糸の切れた凧のようにあてどない、風来坊。
好きな仕事を無念のうちに辞めてしまった、その反動は大きかった。

やけ酒代わりに、お酒のディスカウントショップへ入社して
割烹旅館や、焼き肉店、スナックなどへお酒の売り込みもしました。

ビ-ル会社の営業マンを同行させて、業務店へ売り込みにいった自分が飲まれてしまい、商談はパアー。そのような失敗が続いて、くび。

それでもまだ腹の虫はおさまらず、酒で勝負できると踏んだ土木基礎会社へ。
つい最近、問題となった杭の施工管理、平たく言えば現場監督です。

仕事は真面目にやりました。ところが、現場は四国です。高知県などは、特に酒が絡む。
期待していた以上に酒が絡みます。現場監督としては、お酒は無用の長物なのですが、
物件のパイの奪い合いの過程で絡みます。

とくに大型物件では、同業他社の腹の探り合い、ゼネコンの接待、工事会社の接待などなど。
杭の製造販売会社の中の、私は一現場監督にすぎません。
営業マンと同行して、ひたすら頭を下げることも仕事でした。

ストレスが、営業と現場のはざまで溜まりに溜まって・・・
ひとり、酒を飲むのです。とことん、泥酔の狂い酒でした。
体を壊してしまい、結局、辞めざるを得ませんでした。

そのような状況にあっても、あのカルチャーの先生は優しかった。            よく、尽くしてくれました。

しかし、結婚となると慎重でした。ワケは、言わずと知れています。・・・酒。
『酒とバラの日々』のジャックレモンは、私です。

その後も、いろいろなことをして食いつないでいきました。

50歳の頃でした。

階段を降りようと片足を下そうとしたら、恐いのです。転げ落ちてしまう、そう直感しました。
歩くにしても、足がもつれ、喋るにしても呂律が回りにくい。今までになかったこと。

病院で診察を受け、精密検査をするように言われて、1週間入院しましたら、      「難病」の一種だと診断されたのです。

小脳が縮み、その影響が運動神経などに作用するといわれてしまって・・・
治る見込みは、今のところないのです。

私は、ひたすら歩きました。公園がいいリハビリの場所となりました。
楽しそうに、手をつないで歩くカップルが通り過ぎていくと、無性に腹が立ちます。
向こうから、足取り軽くジョギングをするのを恨めしく思いました。

湖畔に遊ぶアヒルたちが、エサを求めてニャ-ニャ-ねだってくる野良猫が愛おしい。

仕事をしていない私は、両親の年金をあてに生活するプ-太郎。

呑兵衛の父から酒を飲みながら言われる恨み節を、恨みました。
酒を盗み飲み、隠された酒が見つからないと、小銭を盗み酒を買う。

ほとんど、アルコール依存症でした。

見かねた父は、私を精神病院に治療入院させました。
はじめは抵抗しましたが、エ~イ。どうにでもなれ!と入院。

この当時の両親の心労は、私の今でも消えない深い悔恨になっています。
私の入院から、半年後に両親は痴ほう症になりました。

それでもなお、酒を飲み続けている私がいました。

それから、3年後父は亡くなり後を追うように翌年母が逝きました。
60歳を過ぎた今、私は、ひとりアパ-ト暮らしをしています。

馬鹿は死ななきゃ治らない。

と、そのようなことを言ってみても自分が惨めなだけです。死ぬ勇気もない。

弟と恨みっこ無しで、遺産を分けて
年金と失業手当で生活していましたが、働かざる者食うべからず。

あっという間に、貯金も底をつきパ-トの仕事をしている今日この頃です。

このまま、何もしないで酒を喰らって糞尿に塗れて死ぬのか?
それとも、一念発起して大器晩成に賭けるのか?

後者を選ぶのが、何も誰にも恩返し出来なかったせめての償いでは?

自分の実の子供にも、赤ん坊以来会っていない。
30年も放ったらかしです。身から出た錆か。

自室で独り、赤ん坊の頃から現在までの自分史を一行、一句、回想する。

失敗の連続の人生ではあるが、少しはマシなこともしてきたのかな?
だとしたら、自分のダメ人間さが反面教師の役を担えれば。

映画に、仕事に、ロマンスに、酒に、障害者になった気持ちに

ひとつひとつ、灯りを点そうと思います。

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