目次
・出会いまで
東京の生活に見切りをつけて故郷へ帰ってきたのは、1985年の夏のころでした。
阪神タイガースの快進撃に湧き、リ-グ優勝そして日本一。
そんなことは全然知らずに、ひたすらこれからに賭ける自分がいました。
妻と赤ん坊に去られ、残ったのは借金と悔しさだけ。
悔しさはバネに変えてどうにでもなるが、借金は返すしかありません。
約50万円の返済は、三月半、三交代の重労働で返しておつりがきました。
翌年1月、ミニコミフリ-ペ-パ-(新聞チラシ広告)発行会社「S企画」に入社。
広告営業、シナリオ経験をいかんなく発揮できる仕事にありつけました。
もとより新聞記者に憧れていた私にとって、ミニコミフリ-ペ-パ-は
自らが営業し、取材から原稿書き編集発行まで出来る自由な媒体でしたね。
商店街の発展にいち役を担う目的で刊行されたそのミニコミ紙は、隔週金曜日に発行です。
各店の企画した情報や、オ-プン・閉店記念セ-ルなどが紙面を飾ります。
新聞、TV、ラジオ、同業のミニコミ紙誌などライバルに先んじて広告獲得が仕事。
勝った負けたは営業マンの腕次第。休日返上で戦いますが、好きこそ物の上手なれ。
商売ニュ-スも、一社独占の特ダネをものにしたその感激はひとしおです。
入社以来、そんな多忙な仕事漬け生活の夏のある日、そのひとと出会いました。
・消えない面影
ひと回り年下の女子同僚のNから、一緒に飲みませんか?と、お誘いです。
知り合いの女性を紹介したいというのです。お断りしたらバチがあたります。笑
Nが担当するカルチャースク-ルの先生でした。一つ年上のバツイチ独身。
Nの忖度は私にとって、嬉し恥ずかし少しおせっかい。
屋上ビアガーデンで男女2対2の合コン、気楽にそのひとと飲み食べ話をしました。
透き通った瞳の綺麗なひと。初印象でした。ビ-ルが美味かった。
あの日から、脳裏の片隅にあのひとのうっすらとした面影がこびりついていた。
寒い夜でした。アトリエの明かりが消え、彼女が出てきました。
月あかりに映し出された表情は厳しく、コ-トの襟を立てて足早に通り過ぎて行きました。
髪をバックに束ねた広い額に浮かぶ眉間の縦皺二本。眼差しに意志が光っている。
「冬美さん」
その光景を車の中で見た時、叫び声を殺していました。
・告白
距離感の取り方はある意味、営業マンの性格と経験に左右されると思います。
つかず離れず相手の動きを読み、ちょっとした心の隙間に飛び込んでいく。
何かひとつでも共感できる失敗ネタを仕掛けに使い、胸襟を開かせます。
と、唇がゆるみ目元が崩れて歯を見せる。瞬間、懐に入る。
もう、こちらのものですね。笑
ところが男女の関係は、なかなかこうはいきません。
千人斬りのプレイボーイならいざ知らず、奥手なウブな素人はなおさらです。
あの寒い夜の光景のとおり、私はただのスト-カ-の真似事をしていた。
彼女はたまに、仕事の用で顔を出す程度。お茶に誘うことも恥ずかしかった。
私よりもっとウブな新人が、彼女のカルチャースク-ルの担当になった頃でした。
「先生が話があるって!」
息せき切って帰社するや、その新人が声高に言ったのです。
何だろう?
内心、喜び勇んで仕事を放ってすぐに向かいました。
「ごめんなさいね。突然お呼び出しして」
半べそをかきながら語った彼女に、私は裏切られた思いでした。
付き合っている男性に女ができた。どうしていいのかわからない。
似たような経験がよみがえります。
惚れた女性に男がいた。
代議士の愛人に私は惚れた。実らぬ恋でした。
離れていく男。離れざるをえなかった男。
彼女には付き合っている男がいた。
考えもしなかった。馬鹿な私に、裏切られたなんて言う資格はない。
バツイチ独身同士の失敗ネタは関係ありません。
女盛りの彼女に、男は私だけだなどと、、、
十日と経たぬ間、冬美と付き合い始めていた自分がいました。
「どうしていいのかわからない」
この殺し文句に、女性の営業マン(?)の粘り腰をみました。
・放浪の恋路
生まれも育ちもよく似たバツイチ独身同士でした。
冬美は、一男一女の兄妹。私は、二人兄弟の長男。
ふたりとも、両親の愛情をいっぱい注がれて育った甘えん坊です。
「一つ年上の女房は金のわらじを履いてでも探せ」
冗談半分自慢半分に、笑いながら冬美は言います。
はい。気配りの出来る世話好きなあなたが冬美です。
でも。世話好きが過ぎるあなたも冬美です。
カルチャースク-ルでは、紙粘土のお人形創作の先生でした。
繊細で優しい心からの愛情を人形創作に捧げる姿は、聖母マリアさま。
世話好きなマリア様もいいですが、度が過ぎると鬱陶しくもなります。
路肩に、目を剥いたまま轢かれた猫の死骸を見つけると放っておけない。
新聞紙を小箱に敷き、その中にそっと安置して葬ってあげる。
飼っていた小鳥が亡くなると、一晩中しくしく泣いて庭の片隅にお墓を。
刺し身は食べるが、尾頭付きの料理には箸もつけない。
田舎道につくしんぼうを見つけると、車から降りてせっせと摘みまくる。
無邪気すぎるほど無邪気な、優しすぎるほど優しいそんなマリア様に
鬱陶しく思っていた私も、いつのまにか一緒に踊らされているのでした。
獣同士の貪りあいに疲れて、寝息をもらす冬美の横顔に射す月の灯り。
行き先知らずな、放浪の恋路。
ふっと、ため息をつくのでした。