アマチュアサラリーマン無責任時代 サボり三人衆と映画と営業本部長

7月31日(月)約三年間お世話になった職場とも今日でお別れです。

解雇通知の通り、明日から失業の身。再就職に向けた準備は進行中です。

7月20日の「障がい者事業所説明会」で、一件の就労継続支援A型事業所に

関心を持った私は28日、その事業所を見学に行きました。脈ありの感触。

本日、8月4日(金)ハロ-ワ-クからの紹介状と、履歴書を持って面接。

来週の8月8日~10日、12日・14日の五日間の職場実習を経たのち、採否が決まる予定です。

新聞の購読も止めて、ハロ-ワ-クのお世話になっている今

最初の仕事が、新聞の求人広告の営業マンだった自分がおもはゆい。

目次

・新卒入社した広告会社

1975年(昭和50年)の春、大学新卒入社した会社は広告会社でした。

私の担当部署は、新聞広告。その中でも、求人広告がメインです。

全国紙からスポ-ツ新聞にいたるまで、求人広告を扱う仕事。

一般に云う、新商品の宣伝をする派手な広告のイメ-ジとは違い、

地味でいて、また時としてさまざまな人間模様を垣間見ることも。

「お手伝いさんを雇いたいので、相談に乗ってもらえませんか?」

2~3行の案内広告であまり美味い仕事とは言えません。
お宅まで行ってみると、有名人の奥さんと分かって驚きました。

「良い人が来てくれたの。ありがとうございました」
と、掲載後の喜びもひとしおのようでした。

しばらくして、その奥さんが殺害されました。
有名人のご主人が殺人容疑で逮捕。

芸能ネタとしてマスコミが大きく扱っていました。

あの奥さんとコ-ヒ-をいただきながら書いた三行広告原稿は忘れられません。

・営業マンの孤独

求人広告部長とマンツーマンの指導を受け、

名刺の受け渡しから、礼儀作法、営業のやり方まで二カ月の研修期間。

それが終わると、いよいよ営業マンとして仕事開始です。

担当エリアは、主に港区と渋谷区でした。

銀座、赤坂、六本木、表参道、青山、渋谷などなど。

既存のスポンサーの管理、提案はもちろんですが

新入りは、飛び込み営業で新規開拓も重要な仕事となります。

どちらかというと、私は新規開拓の方が好きでした。

既存のスポンサーとの仕事は、以前の営業マンの匂いが残っています。

担当者もその匂いに慣れているので、異臭を放つわけにはいかない。

担当者の顔色をうかがいながら、徐々に距離感を縮めていく。

気分を害さないよう気を遣う。新入りの私は、それが苦手でした。

新規開拓は、当たって砕けろです。

初回の訪問で仕事になることはまずありません。

アポイントを取って面会するには、まだ経験不足。

何度も何度も足を運んで、名刺に丁寧な文字で挨拶の繰り返しです。

毎週月曜日に営業会議が開かれますが、嫌なひと時でしたね。

成績は上がらず、一人きりの新入りは、なにも言えなかった。

午前10時に会社を飛び出して午後5時頃に帰社。

日報を書くそばで、先輩たちが原稿を書きながら談笑している。

麻雀半チャン、帰りに一杯。誘われる時もあったけど、断った。

上司や先輩と仕事の後にもつきあうなんてまっぴらごめん!

真夏にシナリオ学校へ通い始めて、池田一朗先生と出会います。

子供の頃に観た映画「にあんちゃん」のシナリオライターです。

飯の種の広告仕事とシナリオライターへの夢。

二足の草鞋を履くようになった私は、中途半端な浮き草生活でした。

仕事中に映画を観る。勉強でもあり、サボりでもありました。

・中途採用された新人ふたり

新人扱いされた一年間も終わり、

翌年の四月には新しく大卒新入社員が入社しました。

ところが、一週間でサッサと辞めてしまいます。

急遽、中途採用の手配をして二人の新人が入社。

一人は、水商売上りの色男で私と同級生のT。

もう一人は、就職浪人で家の商売を手伝っていた一つ年下のK。

二人は、私と似た匂いがしました。

どこかおっとりしたマイペースな頑固者、そして映画大好き。

営業成績もパッとせず、適当にサボっていても

4年間、給料とボ-ナスは真面目に頂けたのは、この新人二人のおかげです。

サボり仲間は、結束力があって秘密を共有し洩らしません。

営業会議の場で、私への叱責は三分の一になりました。笑

TとKも上司同伴の研修を受けましたが、その期間中は

退勤時間になると、周りの空気を読んでおずおずしながら会社を後にしていました。

そんな中、二人の歓迎会が開かれました。

新人は、先輩社員達との差しつ差されつに宴は盛り上がっているようにみえました。

私もTとKからすすまれるままに、気持ちよく一気飲み。当然、一気返盃。

二人ともいい飲みっぷりです。何か、昔からの友達と飲んでいる感じを持ちました。

あうんの呼吸で、いつもの喫茶店に三人が集まり始めたのはこの頃からです。

・サボり三人衆

たとえば、生命保険の外交員はノルマ達成の目途が立ってからサボり(?)ます。

我々三人は、とりあえず仕事の話はいっさい無し。

観たい映画がどこで安く上映されているかの情報交換から始める。

封切映画館は、懐のあたたかいボ-ナスあとくらい。

たいていは2~3本立ての名画座です。

池袋の文芸座、文芸地下。渋谷全線座。銀座並木座。などなど。

平日の昼間に行く観客は少ないため、ゆったりとした気分で楽しみました。

たまにポケットベルが館内で鳴りますが、クライマックスシ-ンの時は無視。

ポケベルを切り、映画の『The End』が出てから会社に電話する。

と、こんな時にかぎってスポンサーからの大切な呼び出しです。

新橋駅あたりの居酒屋で、例のポケベルスポンサーとの顛末を肴に飲むビ-ルはうまい!

当事者の何とも言えない冴えない顔つきも、次第に晴れ晴れしてきて

「だから何だってんだ~~!馬鹿野郎!!」

間髪入れず、どんどん飲ませる。明日には明日の風が吹く。あとの祭り。。

私もTもKも、しょっちゅうそんなことを繰り返していました。

・もう一人の猛者

営業部は、男子と女子の2チ-ムありました。

理由はよく分かりませんが、恋愛感情を仕事に持ち込ませない為。

このように何となく思っていました。しかし、

それは、社内の風聞によってことの次第がそれとなく見えてきたのです。

男女2チ-ムを統括する松浦本部長の存在は、伝説ともなっていました。

私が入社する数年前、女子チ-ムのキャップは松浦部長だったと聞きます。

松浦部長と女子チ-ムの中の一人が男女の仲になり、子供を儲けました。

結婚はしないで、認知をしたかも不明ですが

その女性は会社を辞めないで、仕事を普通に続けていました。

松浦本部長は、私が入社して2~3年後に他の人と結婚しました。

同じ社内で毎日のように顔を合わせることが平気そうに見える

女子チ-ムの中のその女性と、松浦本部長。

他人には計り知れない愛憎劇。

その松浦本部長が、私とTとKのサボり三人衆を可愛がってくれたのです。

ほぼ、同期入社の東京支社長は京都大学卒のやり手。

関西の高校卒の松浦部長とは、気質は水と油です。

イエスマンを従える支社長に対して、どこか無頼なやんちゃ者好きの松浦部長。

われわれサボり三人衆は、松浦派に属していたと思います。笑

・ハロ-グッバイ

大学3年の時、トイレットペーパー騒動の引き金になったオイルショック以来、

求職難民ともいえる就職浪人の数も増えていたあの頃に入社した私がいました。

難関をどうにかして打ち破り、採用内定を手にした時の喜びは今でも覚えています。

社会人として仕事をすることで食べていける。そんな甘い考えでの4年間。

学生気分がまったく抜けていない、アマチュアサラリーマンでしたね。

地位の上下に関わらず、松浦本部長と支社長の会社での力関係は五分と五分。

その松浦本部長の恩義も忘れるように、サボり三人衆は会社を去っていきます。

はなから出世街道を外れていた、サボり三人衆は不真面目ダメ会社員でした。

Tは、2年で退社してふたたび夜の仕事に復帰しました。

女性ファンのラブコールのなせる技です。色男らしい転身でした。

私はシナリオの夢をぶら下げて、とりあえず1年間故郷で骨休みを決め込みます。

Kは、私の退職後、1年足らずで他の広告会社に転職。

私とは、1年後再会することになりますが。

松浦本部長と支社長の確執は続き、

結局、大阪本社へ送り返されたのは、松浦さん。降格人事でした。

東へ西へ。昼から夜へ。

世の中の流れも人の流れも、グルグル回転していきます。

そしてまた同じように出会ったり別れたり。

生きている限り

ハロ-グッバイ!!

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